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よいではまいか

日日と感覚と琵琶が

むりくり悩み製造マシーン

よくよくよくつきつめてみると悩みなんてない、ほんとはね。たぶんね。

 

悩んでいるんではないの、往生際が悪いの。潔くないの。決めきれてないの。

 

 

悩みも妖怪もおんなじことさ。

信じている人のもとには確かにそれが存在して、はなから信じてない人の世界にはないものなのさ。

 

 

ほんとうに欲しいものは、すでに得ている。ある。

いまここにないものは、じつはそんなに欲しくないのさ。ほんとうには欲しくないもののことを想像して渇いていくことの愚かさよ。

そんな亡霊のことなんて忘れてダンスしてしまえばよいのさ。

 

 

 

循環のよい真夜中にて。

 

 

ゆれている、ゆれている、ゆれている。

和合亮一×3日満月+古川麦『新地町の漁師たち』劇場公開記念コンサート@ポレポレ坐◯

 


◆音楽と詩が練り上げる時間。楽器からは波と風がまろびいで、詩の呟きと叫びが物語を呼び起こす。みえない時間軸が確かに切りとられ、ここへ連れてこられていた。

 

◆表現Hyogen(トリオ)の演奏を生でみるのははじめてだったけれど、丁寧でやさしく、楽器そのものへの敬意と愛を放っていた。あそこで鳴っていたものが、はたして音楽というものだったのか、判別しきれない。儀式にも演劇にも映写機のもらす光にもとらえかねない。

 

◆ポエトリー・リーディング。その背景で流れる音楽は舞台装置。琵琶の語りに通ずるものを感じとった。

いま、現在の、ことばで、語り、琵琶は舞台装置となり、物語と情景と時間を表現する、そんなことができるといいな。やってみたいな。

 

◆和合さんのことばに、ぴしゃりとぶたれた。ことば、というもののの強さを、突きつけられ、改めてそのことを思い出した。目を醒ませよ、と。

書く、読む、語る、うたう、いろんなことばを使っていきたい。

 

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うめちゃんをおひろめた

うめちゃん(相棒:筑前琵琶)をおひろめする月いちの集い、やってみた〜〜

 

感想は、

「しくじった〜〜わ〜〜たのしかった〜〜」

です!!

 

 

おいしいインドカレーと友だちのバースデーケーキをつめこんだぱんぱんのおなかで語りました@やっすいカラオケルーム(声といっしょにアレらが飛び出さなくてよかった)。

 

のどとおなか全然使えてないし、節まわしも珍妙なアレンジ入っちゃうし、琵琶の手もだいぶ飛んだし、最後の盛り上がりで「あ、これだめだ、できませんわ」と中断するし、声量と勢いだけでどうにか押し通したけど。

 

清清しく失敗して、それも含めてたのしかった〜〜やりきってしまえば細部のことは案外どうとでもなるものだ!!!

 

 

ひとまずの課題は、

◆のどとおなかをたっぷり使う

◆目の前にいる"人"にとらわれすぎず、空間やあっち側にフォーカスする

かなあというところ。

あと持ち曲もっと増やしたい。

 

 

来月以降の予定はまだまるっと決まってなくて、おともだちがまた来月も、と言ってくれててどうしようかな〜〜

次はカラオケルームじゃないところでやりたい……

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(加工しまくったらメリメリしてなんかおもしろくなった)

 

わたしは門になりたい

わたしのしたい(したがっている)(かつてしたがっていた)おこないを、ひとまず整えよう。

 

 

◆ことばを使ってあそぶ、出力する

◆受けとった感覚や感覚を超えた次元のありようを、なるたけ加工せず削ぎ落とさず失わず、表現する(くだもののように)

◆時間や空間や流れゆくものを意識しながら物語や情景をあらわす、できることなら具体的な人物を描くことなしに

◆感情でも思想(思考)でもなく、感覚

◆夢と無意識をとらえる

◆あっちとこっちとを繋ぐ

◆楽器をいじる

◆呼吸を意識する、うまく吐き出すすべを身につける

 

 

そういうことのために、わたしはさまざまな表現媒体に手を出してみましたが、ここへきてようやく、集束する地点が見当たったような安堵感に包まれています。

試して、おこなって、これはいかんと投げだして、また違うものを見つけて。のくりかえし。くりかえし。

そうしてどうにかみつけた平穏へのか細い糸口を、よしよしと大切に守り育てたいのです。

 

 

 なのでして今年はこんなことをやろうと思ってます。

 

◯月いち・うめちゃんおひろめ会◯

(うめちゃんとはわたしの相棒・筑前琵琶のことです。月に一度は他人様の前でうめちゃんを弾く会を催します。うめちゃんをみたい方、音色を聴きたい方、ぜひご連絡くださいね)

 

 

◯もりやのことばプロジェクト◯

 (これはただただ、もっとことばを出力する機会を意識的に増やそうという試みです。SNSやブログをもっと更新するのが主体です。それ以外にもなんか思いついたらやりますきっと)

 

 

旧正月からも立春からもだいぶ遅れましたが、決意表明などしてみた!!

お付き合いのほど、よろしくどうぞ〜

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(この子がうめちゃん)

おびわびわ:演奏会と宴

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たいへんいまさらながら。

1月24日に、筑前琵琶の演奏会に参加いたしました。
わたしの師事する田原順子先生とその一門の総勢(だいたい)30名ほどによる年に一度の勉強会なのです。

※画像は田原先生のHPより拝借いたしました


2回目の参加だったのですが、あまりにも練習不足だったり、そんなに見せ場があるかんじでもなかったりで、まったく宣伝してませんでした。
なんですけど、宴会でご一緒した、長年この演奏会に関わってくださってる方が「もうお金とってもおかしくないくらいの演奏家が出演してるんだから、もっともっと宣伝してたくさんの方に聴いていただかないとだめよ!」と宴会中くりかえしくりかえしおっしゃられまして。
たしかにまず琵琶を聴く機会自体あまりない中で、こんなにたっぷり琵琶にひたれる時間があることはとても貴重だなあと。
自分の出演のことにばかり気がいって、いろんな人に琵琶を味わってもらおうという気持ちなんかすっとんでましたね。

反省です。



わたしはまだマイ琵琶ちゃんを持っておらず技量もお察しですが、今後聚の会(田原先生一門のこと)の出演情報などあればこまめに宣伝していこうと。

思った。
次第です。


はやく琵琶ちゃんおうちにこないかしら。



閉幕式

コートをしまえない。
けれども半袖は着る。

半袖を着るのは長袖を着たくないからである。長袖が不快になりつつあるからである。
長袖よりも半袖を着たほうが気分よく暮らせることを皮膚経験的に知っている。
着るとよい、という前のめりの気持ちで着る。

コートは過ぎ去った出来事である。
時間と自然現象がもはや通り過ぎてしまったということの残骸である。
部屋で凝り固まる過去である。重くて億劫。

先から向かいくる季節は勝手にはじまってしまう。暑い寒い乾いた湿った、そうした刺激により知らしめられる。
一つ手前の季節を閉じないうちにも。

終わった季節は意図的に閉じなければ、どんどん部屋に堆積してしまう。

ガスストーブも掃除しなきゃ。




もりや
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人づてにきくチャンドラー方式

人と顔を合わせ、場を共有し、ことばを交わした帰りの電車で反芻する本日の記憶。

具体的にどんなことばをいただき、発したのか、輪郭がおぼつかない。
けれどもたしかに充足感がある。
ビタミンだかミネラルだかそういうとにかくからだによさそうな資質に限りなく近しいなにものかを飲み下したおぼえがある。
すぐさま思いだせないのだから、即効性はないのである。おそらく。
しらず、消化分解吸収されて、のちに、それはずっと遠いのちに、血肉となっていることに気づくのでしょう。


人と、なにかを伝え合ったつもりで、その人のなにかを一部掴みとったつもりで、結局のところなにをしているんだろう。
そこに起こったことはなんでしょう。




もりや


最終章は金庫のなかに

自分の人生なるものが、さも自らの選択の連続でのみ進んでゆくものだと考えてしまうと、わたしはけっこうつらい。
なんか責任重いよね、どーしよどしよ、と無駄に慌てる。
でも、脚本家と演出家と役者の三者による共同制作だと思えば、すこし気楽。

わたしは役者です。その役柄には設定が与えられている。すがたかたち、性格、欲望、役割、もろもろ。
どうしても気に入らない設定がある場合には、脚本家に不服申し立てして修正してもらうか、それが難しければ演出家にそれを補えるほどすばらしい演出をお願いする。
役者に渡された脚本には、直近のことしか書かれていない。その意図もわからないうちに時間に迫られて演技をし続ける。
で、役者が不信のせいで暴走し勝手な演技を始めたら、演出家は激怒する。無理矢理軌道修正する。ひずみがどこかに生じるかもしれぬ。
役者にできることは、なんかおかしいなとかこれでいいのかなと疑わしくなったとき冷静に脚本家と演出家に問い合わせること・まあうまいこと作ってくれてるに決まってるから大丈夫だろと信頼して役に浸りきること、なんですかね。
なんかつらいことあっても、これは脚本家が物語のスパイスとして入れただけだから!とか絶対このあとたのしい急展開くるから!と、へし折れずに劇を続行できる。


人生を俯瞰してみることは、役者にはできない。
役者によっては劇の途中で自分に求められている役割に気づくこともあるかもしれませんが。
でも基本的に、役者はただ演じるしかない。
だけど、いまのうちにできるちょっとたのしいこととして、ハッピーエンドを作って演出家に渡してしまうのは、いいかも。
あまり事細かではない、ざっくりと、とにもかくにも幸せに終わりますよ、という閉幕。
そうすれば、そのハッピーエンドを迎えるためにどうすればいいのか、どんな道筋がそこにつながるのか、工夫しながら演技していけそう。

ハリーポッターの最終章も、ずいぶん初期の段階で決まっていたらしいですしね。




もりや

わたしはどこにもいたくない。

俳優や歌手は、うつくしい。
そしてひどくうらやましい。

一つには、圧倒的に、その場に存在しているから。観るものに、肉感的な影響を与えてならないから。
事故であり現象である。理屈でなくただ肌で感じ、巻き込まれてしまう。
そういうのは、文章ではちょっと難しい。

あと一つ、しがらみがないこと。
その身一つさえあれば、どこででも始められる。どこにも所属せずにいられる。
所有から解き放たれている。
さっぱりしてすばらしい。


あとは自分じゃないものになれてお金もらえるっていうのがいいですねえ。
すごいきもちよさそう。




もりや

立って死ね

映画『百円の恋』を観て。

無職の主人公・一子がぐだぐだ生活の温床となった実家を飛びだし、百円ショップで深夜バイトしながら恋(らしきもの)をしたり傷ついたりしながらうっかり始めたボクシングにのめりこみ試合にまで出るけどボコボコにされたよ、という話。

(というとなにか大事なものが抜けおちてるようではありますが、まちがってはいない)


主人公演じる安藤サクラの身体性の変化がとてもおもしろかった。
はじめ、無職で実家にこもっているときは、軸がない、軟体動物の運動だった。走っても足は引きずるようだし、自転車をぬめぬめと漕いだ。バイトのレジ打ちものろのろ、なのに落ちつきがない。

好きになった男がきっかけでボクシングを始めるものの、風にあおられるビニール袋みたいな、体重のまったく乗っていないパンチ。意志のないパンチ。

ところが男に逃げられてから、一子のからだが、唐突に密度を持ち始める。
腰が入って、重く鋭くなったパンチ。風を切る。ステップは、切り刻むように。
タンクトップ一枚なのに、密集した空気を鎧としてまとっているように、からだはかたく張り詰めていた。輪郭がみえた。


意志も深い欲求も遠い場所に捨ててきたような一子が、したたかに殴られ、崩れ落ち、呼吸がひどく上がりながらも最後まで試合にしがみついていた。
終わってから、「勝ちたい」と、泣いた。

熱と、研ぎ澄まされていく視線、表情、からだ、とても圧力のある映画でした。

5/29まで、渋谷UPLINKで上映してますよ。


もりや
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