読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

よいではまいか

日日と感覚と琵琶が

欲ねむる

◆眠りの体勢が、起きている時間の心のうちもかたちづくる、ですってよ。

◆からだの右側を下にして・腕と脚とを折りたたんで・内臓をこぼさないように・きうきうというか・しんしんといおうか。

◆以上いままで通例の睡眠体勢。腕と脚との組まれたはざまにぬるさを保ち、ほころびの少ない睡眠と夢ようまいこと漂着してねんという待ちの状態。

◆地引き網漁です、いわば。

◆がしかし閉じこもるようなその体勢は、猫背8時間やってるようなもので、肺・心臓・もろもろ圧迫。まあすこやかではないとのことで。

◆あお向け・ささやかな大の字。で眠る近ごろ。すかすかして落ち着かないかと思いきや、案外ほがらかに眠れます。原っぱで寝ころぶ感じに近い。

◆大地!わたしを受けとめて!(ずっしり)そんなふう。

◆でも朝、うつぶせになっていることがしばしば。ついでに口開いてるようで、やたらのど乾燥してこまります。



もりや

広告を非表示にする

空中分解

息をしているのを、ときたま忘れる。

息をしていないのではなく、していることが、ずいぶん遠い街のできごとみたいに、おもわれるのである。

そういうときの呼吸は、たいがい浅いらしい。
ただうわっつらをなでるような、波すら立たせないような、軽々しいぞんざいな呼吸。
循環が完遂しないような、呼吸。

吸っても吸っても、溺れているよう。
もしくは陸地の魚のよう。

足と地とその他からだのどこそこだとかが、むすびついていられずに、離れてとびちりかねない様子。

かろうじて、引っかかって、いる。




もりや
広告を非表示にする

牛の世界

牧場にいったんですね。
電車で1時間半、バスで20分、徒歩30分。
言われるがまま、ずいぶんな山奥に追いやられていました。しらぬまに。

その牧場はひろくまるい野っぱらでした。
野っぱらに、低い柵と、ちょいと古ぼけてそれらしいおもむきの、畜舎やらソーセージ工房やらが植えつけられて、あとから足したように、ブルドーザーやらヒツジヤギニワトリポニーロバウマウシアヒルモルモットやらやらがうまいこと配置されたような、そういう牧場でした。
デスク上のライトみたいに近い日射しを受けて、肥料をたっぷり含んだ土が、もうもうとにおいたっていました。
遊びにきている人たちは案外ちらほらいて、暑い暑いヒツジさんかわいいねえきゃあきゃあという声はそこかしこで鳴っていましたが、建物の外でそれらしく働いている人のすがたはふしぎなほどありませんでした。
無人の遊園地で回るメリーゴーラウンドに乗せられたようなここちがしました。
そういう牧場でした。


わたしと友人が、おおよそひと巡りし、ハエや熱っぽい牧場のにおいに慣らされたころ、牛舎をみつけました。
入り口は開け放たれ、「なかでさわがないこと・鼻をつままないこと」など簡素な注意書きが添えられているばかりでした。
わたしたちは、まあよかろうと、誰にも告げず、牛舎に入りました。

牛舎はトンネルのようにほの暗く、出口の光が内部を照らしていました。
わたしたちはまっすぐ、光を目標に進みました。
両側に、ウシがいます。
ウシたちは昼下がりのせいか、けだるげに膝を折りまるまっていました。
よそ者が侵入しているにもかかわらず、ウシたちは一瞥くれ、尾っぽを遊ばせ、ずんぐりした状態を保っていました。
置物のような運動量なのに、わたしたちは息苦しいほど、圧迫されていることに気づきました。
皮膚の一枚外側が、内部へ内部へからだを押し込めたがっているような圧力でした。
異物が押し流されるようにして、わたしたちは自主的に、あるいは圧倒的な強制力によって、牛舎から吐き出されました。

牛舎の外で呼吸をしたら、むわりと土くささが肺に溜まりました。
その空気は、牛舎のなかにはない、ほがらかさをたたえていました。


牧場で食べたジェラートはすばらしく乳の味でしたよう。




もりや
広告を非表示にする

それは、なぜでしょう

なぞなぞの本が、好きでした。
それは小学生のころ。

かといって、熱心に解こうというんでもなく。
そそくさとページをめくって、答えをみていた。
なぞなぞの答えを知ると、安堵した。
逆にいうと、答えがわからない状態が、やたらにおそろしかった。
どれほど離れているのか検討もつかぬ不確かな目的地へいきなさいと、ただひとり、暗い夜道を歩かされるような心もちに近かった。
背後になにかがいるような、追いかけられているような焦燥感を勝手に感じてどぎまぎしていた。
答えをみれば、その不安から解放された気になった。

ほ。
と、ひと息つけるのだった。

そんななのにまた懲りず、新たななぞなぞをみてしまう。問われる。おそろしくなる。ページをめくる。答えをみる。
その緊張と解放のループを、こわいものみたさで、本を読みつぶすまで続けるのだった。


◯◯◯って、なあんだ。


この字面に、いまだに不穏さを感じてなりません。
背中がぴりぴり、毛羽だつようです。
わからないことがわからない状態であり続けるというのは、やっぱりどうにもこわいものです。



もりや


ダンサー・イン・ザ・パブ

今日、カラオケパブ?なるものに、はじめて連れてかれました。

行ったことない人に説明すると、カラオケとぽつんとしたステージが設置された酒場です。
お酒飲んだりつまんだりしつつ、歌いたい人は1曲いくらでステージ上で歌うことができるのです。当然、ほかのお客さんもみているなかで歌うわけです。

はじめは慣れず、どぎまぎしながら、なんでこんな知らない人の前に晒される羞恥プレイを、なんて声を震わせてましたが、何曲か歌っているうちにわりと気持ちよくなってきました。
ほかのお客さんもべらぼうにうまいわけでなかったし、ただ好きで歌ってわいわいするよ、ナイスファイト!な空気でした。


で、わたしたちがそこそこにほぐれてきた頃、男女二人組のお客さんが入店してきました。
社長の風格匂わせる老紳士と、スリムで知的な三十代とおぼしき女性でした。
しばらくお二人は歓談されている様子でした。
と思ったら、女性がすっくと立ち上がり、ほかのお客さんの歌に合わせて猛烈に踊りはじめたのです。
しかもノリノリでゴキゲンなソングではなく、演歌でです。
力強くのびやかな歌声に女性のダンスがフュージョンするわけですが、それはもう、まったく合っていないのです。
女性のダンスは、チャチャチャとかそういった系統の激しめな社交ダンスに近しいものと思われました。でも詳細はわかりません。
それをたった一人で踊っているのですが、そのさまは、もはや踊っているというより、ひたすら情熱のおもむくまま、くねり狂うという様相でありました。
くねくねなのに、キレッキレなのです。
圧巻でした。

女性は、一曲終わるたびに席に戻り、次の曲がはじまるとすぐさまステージ脇にくりだし、踊るのでした。
その一連の動きに、まったく迷いを感じさせません。
席に引き返す彼女は、重大な任務を完遂したような、晴れやかで勇ましげな表情をしていました。

ほかのお客さんは好き好きに、演歌やらバラードやらサンバやら入れるのですが、彼女は曲によってその振付を変容させていました。
ひどく腰を振ったり、腕先をしならせたり、過剰にステップを踏んだり、とかく多様な動きをしていました。
けれど、どんな動きをしていようと、まあおそろしく曲と合っていないのでした。

ほかのお客さんは、「いいぞいいぞ!」と、やんややんや拍手しました。
「歌がうまいのに、なんかへんな踊りが目ざわりだわ」くらいのことをもらすお客さんもいました。
彼女は外野に目もくれず、踊りつづけていました。


事件に巻き込まれたような、天災が目の前で起こっているような心もちで、わたしはダンスを眺めていました。

なんともいえず得体のしれない元気が、でました。




もりや

はかたのしお

白い服が着たい。
近ごろ、ことにそう感じる。

空がきりもないほど青く、明るく、風はそれとなくやわらかい、そんな日が続いているからでしょうか。

冷たい雨の日には、黒い服をまといがちである。
化粧も極力しなくなる。
そうして、ほの暗い水に潜む、深海魚の気持ちになる。


いつか、奄美シマ唄の歌い手・唄者朝崎郁恵さんが、舞台上で白い衣装をまとっていた。
たしか奄美における神事に関わりのある衣装だったようにきいたけれど、詳しいことはわからない。不勉強です。
ただなんだかわからないなりに、あれはすごいものだと、感じた。
発光して、会場の空気が、じわじわ、清められているようであった。
もちろん朝崎さんの圧倒的存在感やその唄声がそうさせていたのもあるでしょうが、あれがもし、色の暗い服だったら響き方がぜんぜん違うんだろうなあ。


あまりおしゃれに頓着しないわたしは、まえまえから日常の制服を設定しようかなと思いつつあったのですが(マンガのキャラみたいに)、白いワンピース、3着くらい買って毎日着てようかな。



もりや
広告を非表示にする

ハイファイ・セツコ

今日はうんこの話です。
以下、ハイセツブツとします。



3月末までかなり規則的なタイムテーブルにのっとって生活していました。
すると、自ずとハイセツタイムが体内で決まってくれて、だいたいAM10:00前後がそれでした。
けれどもタイムスケジュールが変わったこの頃、そのタイミングで御不浄になかなか行けないのでして。

たった何秒何分かのハイセツチャンスを逃す。
それだけでその日はほぼほぼ滞る。
一日逃すと、ねじでも外れたみたいにぐらぐらと調子が崩れ、何日か待機状態が続くこととなる。

滞納したからだは、重い。
くるしい。息がつまる。
なのにむしゃくしゃして、食べる。
あんまりおいしくもないのに、食べる。
よけいつらい。
重く詰まったからだは、動きがにぶい。
よからぬことばかり考えたがる。
もんもん引き寄せる。


何日かののちに(そうはいってもさほど深刻な時間ではない)、うまくズレがはまりこむと、解放される。

あまり強く意識したり、へんに力んだり、祈祷したりするほど、遠ざかるようである。
それこそ上から降臨するものをただただ受け入れる心づもりでいると、ふと来たる。

あのうれしさったら、ないよね。
囚われの身から脱したような、あのすがしさ。
それだけでいい夢みられそうだもの。
よきハイセツ、よきスイミン。
よきゴハン、よきイトナミ。



もりや

広告を非表示にする

無防備なことば

学生のとき、人の話すことばを書き起こすのがちょっとマイブームだったことがある。
もとは、課題のために3つの質問をして、それに答えてもらったインタビュー音声を整理するのに始めたのだった。
始めてみると、書き起こされた話しことばがおかしくて、たのしくて、それからわずかな期間、友人との食事時にはレコーダーを持ちこみ、あとで一部書き起こして印刷して蒐集する遊びをしていた。

話しことばというものは、こんな書きことばとは違い、思いもよらないほどめちゃくちゃだった。
主語もなく始まったり、時間軸がとにかく飛び散らかっていたり、ああとかなんかとか無意味な単語がやたらに挟まっていたり、尻すぼみに消えていったり、成立してない文章未満の文章。

また、音声を文字化することで、声色とか温度湿度においみたいなかすかなものも取り払われて、あまりにも簡素な情報のかたまりに成り果てるのだった。

すっぴんのことば。
野ざらしのことば。

書きことばとは、ずいぶんと意識的に、べたべたと装飾されスタイリングされたものなんだなあと、感心してしまった。
なにに対してかはわからないけれど。

音声→文章化した素材は、その後小説としてまとめました。
インタビュー元がわからないくらいこねくりまわした幻想ふわふわ小説になった。


あのとき、インタビューして文章にするって、じつはけっこうたのしいんだなあとじんわり興奮したのでした。



もりや

広告を非表示にする

オリュンポス

さきほど『天音』のたい菓子をいただきました。
食べるとふしぎとこころが和らぐような、おいしいたい焼きです。
吉祥寺に行くたびにほぼ毎回食べてしまいます。
おいしいものを食べると、あたたかくほぐれるような、ちょうどよいスペースに収まるような、肚がすとんとすわるような感覚がするもので、そんなものを食べられたときは自然とごちそうさまを言いたくなります。


さて、本日は骨格のゆがみ矯正にまつわる講習を受けてきました。

座学に留まらず、実践と体験を含んだ内容で、知識を無理なくからだに落としこむことができました。たのしかった!
先生がちょいちょいっと首元をさわっただけで、急激に胸が開き、一本芯の通った立ち姿になりました。
顔立ちもなぜか凛凛しく、きらきらな瞳に変身。
まさに魔法。

骨格は日常のほんとに他愛のないことでゆがみねじれ続けているのだそう。
眠っている間にも。
骨格がゆがむと脳からの神経伝達がうまく行き渡らなくなったり、内臓を圧迫したりする。
ゆがみを溜め続けたからだは、病気を呼ぶのみならず、こころまでもふさぐ。
こころにイチモツ抱えこむ人は、筋肉が異常に緊張していたり、どっかの骨がへんにとび出てたり、呼吸が浅かったり、かなりからだにサインが出ているらしい。
からだからアプローチしていくことで性格もかなり変わってくるものなのだそうですよ。

昨日もかいたけれど、自分のからだも、こころも、どこまでが自分の所有物にあたるんでしょうね。
いままで「これが自分なんだ!」と思っていたこころの癖も、感情も、身体をちろっといじられただけで消え去ってしまうものなのかもしれない。
ずっとずっと根深く信じこんでいたものだって、風が吹く前の塵芥なのかもしれないんですのよ。

こころとからだ、人間のぜんぶ!



もりや
広告を非表示にする

ホルモンさんどうにかしてください

ドーパミン
アドレナリンノルアドレナリンコルチゾール。

などというものたちが、わたしたちの頭で分泌されており。
それらによってわたしたちは、やる気スイッチON/OFFしたり、うつうつぶつぶつしたり、しあわせだなあと涙をにじませたりなどするのだそうですって。
ね。

するとわたしが感じたであろう気分というものは、パレットにくりだされた絵の具のごときもので、どの成分が何パーセント何パーセント出てるからいまはこういうふうな具合ですよとホルモンが配合された結果なんでしょうね。

そういう捉え方をするならば、例えばわたしがいまこんなにかなしくむなしくやるせないのはなんたらなんたらホルモンがこのくらい出ちまってるせいなんだわ、ただそれだけなんだわ、って考えられる。
わたしがどんな気持ちになろうと、それはホルモンのしわざであり、言うなれば思いこみであり気のせいなんだな、なんて。
自分を分解して不具合起こしてる部分を客観視できたような。

自分の感情が、自分の範囲外で起こっている事象だと認識できたかに思える。
自らの責任がそこに発生しないかのように思える。


ひとりでのろのろと考えごと(というよりもただの脳内あそび)をしていると、思いもよらずあやしげな方向に沈んでゆくことが、ままある。
ほんとうはこんなこと感じたり考えたりなんかしたくもないのにな、なんておもいながらも、沈みゆくものをとめられない。
沈んだままでは、苦しい。

そういうとき上記のように、まるで伝染病だか天災に襲われたくらいに心底おもってしまえたならば、とてもどうでもよくなります。

そんなことをくりかえして、わたしは自分の感情気分情緒なるものが、半分以上はわたしのものではないと、つとめて認識するようになどしています。
半分以上どころじゃない、な。
ずっとずっと多くの部分が。

それでも渦中にいるときは溺れてしまうんですけれど。


もりや